マルオ洋品店のブログ

兵庫県稲美町のマルオ洋品店の店長のブログです。

まるたの母 昭和物語 東京オリンピック

カタログをお届けする際に、うちの母親がいつも昔のことを書いています。
お客さんには「懐かしい」と喜んでもらっています。
せっかくなのでバックナンバーをブログにアップしていきます。

※この話は2021年夏用に書いたものです

まるたの母 昭和物語

 物があふれ、どんな田舎にいても、家にいながら何でも手に入る、ついこの間までには想像もつかなかったような便利な時代になりましたが、豊かではなかったけれど、なぜかあの頃はよかったと思えてしまう昭和、そんな時代を一生懸命に生きてこられた方々にああそうだったなあと、少しでも懐かしく思い出していただいたらと書いています。数十年も前のことですから私の思い違いもあるかもしれませんが・・・

東京オリンピック

 昭和三十九年十月十日は爽やかな秋晴れでした。土曜日で学校が午前中だったので、私はとんで帰るなり、テレビのスイッチを入れました。其の日は東京オリンピックの開会式でした。
君が代が流れ、古関裕而さんのオリンピックマーチの演奏とともに、選手団の行進がはじまると小さな白黒のブラウン管テレビに釘付けになってしまいました。今までに見たことのない感動の連続でした。
何百人ものアメリカ選手団から旗手一人だけのような国、次々に行進してくるさまざまな国の人々、民族衣装で行進する国、テレビでは白黒にしか写っていないけれど、赤と白の日の丸カラーの日本選手団が行進してきたときの嬉しさ・・・

 天皇陛下の開会宣言、前回開催地のローマからオリンピック旗が渡され、風船が空に放たれました。広島に原爆が投下されたときに生まれたという、今は亡き坂井義則さんによる聖火の点火で二十四日の閉会式まで聖火の日は国立競技場に燃え続けました。青い空に鳩が放され、航空自衛隊ブルーインパルスにより白い五輪の輪が描かれました。テレビに釘付けになっていた私は妹や弟がどうしていたのか、一緒に見ていたはずなのに一切記憶にありません。
両親はオリンピック開会式を知ってか知らずか、いつものように毎日の仕事をこなし、テレビを見に来たりはしませんでした。

 オリンピックの前年の運動会では、三波春夫さんの「東京五輪音頭」で婦人会の人達が踊ったり、「この日のために」の歌に合わせ六年生がダンスをしました。鼓笛隊もこの頃から盛んになりました。
エチオピアのアベべ選手は、ローマ大会では石畳のアッピア街道を裸足で走ったのに、日本では靴をはいて走った事が話題になり、円谷選手は国立競技場で追い抜かれ銅メダル受賞になった事が後年自らの人生に終止符を打つという悲しい出来事になってしまいました。

女子バレーの東洋の魔女は、回転レシーブという技が一躍有名になり、その厳しい練習風景が、人気テレビドラマになりました。チェコの美しい体操選手チャスラフスカさんは、見事な演技で私たちを魅了し、「プラハの春」というチェコスロバキア民主化の中強く生き抜いた人ですが、家庭的には辛く悲しい面もあったようです。

夕闇が迫る国立競技場で、各国の選手たちは国や性別もなく一団となって入場し、まさに人類の平和の祭典オリンピックは人種を超え十五日間の大会は終わりを迎え、次のメキシコにバトンは渡され 閉会式は終わりました。

 オリンピックの翌年には市川崑監督の映画「東京オリンピック」が学校でも上映されました。私の脳裏のオリンピックはおそらく白黒テレビの映像ではなく、カラー映画の映像にすり替わったのでしょう。今もオリンピックマーチを聞くと心が逸ります。あれから何度もオリンピックやスポーツの世界大会が開催されていますが、やはり昭和三十九年の東京オリンピックは、私の中ではただ一度のオリンピックです。

焦土となり戦後二十年にも満たない日本で、オリンピックが開催できたのは、辛抱強くただ黙々と働き続けてきた私たちの親や祖父母の世代の頑張りの証だと思わずにはいられません。