マルオ洋品店のブログ

兵庫県稲美町のマルオ洋品店の店長のブログです。

まるたの母 昭和物語 「秋 彼岸の頃」

※この話は2021年秋用に書いたものです。 

豊かではなかったけれど、なぜか懐かしい昭和、そんな時代を一生懸命に生きてこられた方に懐かしく思い出していただければと書いています。

秋 彼岸の頃

 我が家の庭の片隅に毎年一株の彼岸花が赤い花を咲かせます。普段は葉も何もないのに、九月頃になると薄黄緑の小さな蕾が顔を出して少しずつ伸びて、先がほんのり赤みを帯びてくるとすっと伸びて鮮やかな赤い見事な花を咲かせます。

 その年の気候にもよりますが、文字通り彼岸の頃になると、稲穂の波の間の田んぼの畔が、彼岸花の見事な赤い花の帯に変わります。テレビのニュースを見ていると、最近では全国各地に彼岸花の名所ができ、都会の人たちが見物にやってくるようです。街に住んでいる人にとっては、懐かしい故郷を.思い出す花かもしれません。

 実家近くの畔には彼岸花は咲いていませんでしたが、やはり一株の彼岸花が庭先に咲いていました。祖母が実家のまわりに沢山咲いていた彼岸花の球根を持ち帰ったものだそうです。なんでも神戸の垂水に嫁いだ伯母が、蛸釣りの餌に使うからと、掘ってきたものとか・・・

 祖母はいつも彼岸花のことを「手くさり」と言い、仏壇にお供えしたりしていました。根に毒があり、蛸釣りに使うのは、その毒があってのことだったのでしょう。

 私が幼稚園の時に、季節の花の絵が書いた表のようなものがあり、先生が彼岸花を指して、この花の名前を知っている人?とみんなにたずねました。私はいそいそと手を挙げて、得意げに 「てくさり」と答えました。
先生は苦笑いをしていました。帰ってその話をすると、母も苦笑いをしていました。

 彼岸花には地方により色々な名前があるそうですが、「死人花」「地獄花」「捨子花」不吉な名前が多いようです。葉と花を同時に見ることがないので「捨子花」と呼ばれたのかもしれません。

 今から百年近く前、祖母がまだ娘の頃、スペイン風邪が大流行し、祖母は両親と出産間もない兄嫁を一度に亡くしたそうです。両親を亡くした子、母親を亡くした子、それはまるで彼岸花の又の名前「捨子花」のようでした。

 兄の事業の失敗、両親の死、そんな不幸から間もなく祖母は嫁ぎ、八人も九人も子供を産み育て、貧しくても強く逞しく生きました。六十年にも満たない生涯でした。一番末の叔父はまだ高校生でした。

 祖母の死後、伯母たちは彼岸花の咲く頃、いつもお墓参りに集まってきました。凸凹したさんまい(埋め墓)にはの石の墓標の周りに、あっちにもこっちにも、沢山の彼岸花が咲いていました。お墓にお供えされたうす紫のハナトラノオや紫苑の花と赤い彼岸花で、秋のお墓は美しく彩られていました。

 お墓から帰ると、いつも座敷は伯母たちの声でにぎやかでした。母が作った散らしずしを食べながら、子供のころはいつも弟や妹の世話をさせられたと、仏壇の祖母に文句を言いながら 、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、お供えした梨や葡萄の山はつぎつぎにおろされていき、秋の日はあっという間に暮れていきました。