マルオ洋品店のブログ

兵庫県稲美町のマルオ洋品店の店長のブログです。

2022年夏まるたの母 昭和物語 「煙草」

※この記事は2022年の夏にまるたの母が書いたものです

 豊かではなかったけれど、なぜか懐かしい昭和、そんな時代を一生懸命に生きてこられた方に懐かしく思い出していただければと書いています。 

何年くらい前からか受動喫煙という言葉が叫ばれ、喫煙場所も狭まって、最近は煙草を吸う人もめっきり減って、社会から煙草の煙も随分少なくなりました。

 昔は大抵男の人は煙草を吸っていたように思います。主人も結婚した時から当然煙草を吸っていました。「男が煙草を出したらさっと灰皿を出すもんや。」今までぼんやりと育ってきた私にはそういう夫の言葉がギクリと突き刺さりました。気の付かない娘を育てた母もドキリ。結婚式の後、家に大勢友人を招き、その時も義母は十枚も二十枚も沢山の灰皿を用意していました。その後はお客さんが来られると、さっと灰皿を出して、気の利く嫁のふり(笑)をしていました。

 ある時次男がまだ一歳にもならない頃、夫が灰皿の吸い殻が無くなっている事に気づきました。何でも口に入れたがる息子が食べてしまったことに気づき、夜中に夜間急病センターに慌てて飛び込み、幼い息子は胃洗浄を受ける羽目になりました。夫は看護師さんに、胃から出てきた吸い殻を見せられ大目玉を受けました。その後煙草は止めることになり、パイポという禁煙グッズをくわえて頑張りました。やめた筈が外から帰ってくると、なんとなく匂っていることもありましたが、いつの頃からか煙草とはすっかり縁が切れました。
  
 息子は大学に入ると親のすねかじりの癖に当然のように タバコを吸っていました。学生寮に行くと授業にも出ず、黄色い歯を見せて面倒くさそうな顔をして出てきました。

 子供の頃はやはり父も煙草を吸っていて、私はよくオレンジ色の光という煙草を買い.にやられました。ある時あさひを買ってこいと言われました。、今まで見たことのないくすんだ緑色の桜の花の柄がついたパッケージでした。今になってそれは本居宣長の和歌「敷島の大和ごころを 人とはば 朝日ににほふ 山桜花」から付けられた名前で、敷島・大和などの銘柄も戦艦の名前と同じく、戦意高揚のために付けられた名前だったのではと気が付きました。父の煙草はピース、ハイライト、ショートホープと変わっていきました。子供の頃の私は煙草を臭いと思ったことはなく、正直いい匂いやなあと思っていました。

 母の実家のお祖父さんは黄色い箱のしんせいを吸っていました。おじいさんくさい名前の煙草やなあと子供心に思いながらしんせいを買いに行きました。しんせいは戦後復興の新生という新銘柄だったそうです。母によるとお祖父さんはもともと煙草は吸っていなかったのに、戦時中煙草の配給があり、煙草を吸うとカッコいいと思うようになり、吸い始めたそうです。配給の煙草は紙に巻かれていない刻み煙草で、お祖母さんに紙を巻かせて吸っていたと、母は少し怒ったように話してくれました。お祖父さんの兄.大伯父はいつも.キセルで煙草をくゆらし、時々コンと煙草盆を叩いて灰を落としていました。

 子供の頃友達の家に遊びに行く途中大きな葉っぱの煙草が栽培されている畑があり、高校の林間学校でも、但馬に行くバスの車窓から、背の高い納屋の上に窓があり、あれは煙草の乾燥室ですと、先生が説明してくださいました。農家にとっても大事な換金作物であったのでしょう。

 コロンブスが新大陸から持ち帰った煙草が世界中に広がり、一服の休息を与え、人々の生活を支え、行政の税収を支えた時代も長かったようです。百害あって一利なし、煙草も可哀そうな気がします。子供のお使いも、煙草屋の看板娘(お祖母さん)もなくなりましたね。